ソフトウェアはだいじ。

優秀なチームであってもチームとしての意識がなければ、烏合の衆に過ぎない。

 

ソフトウェアは、人間で言うところの考え方や性格にあたるものだ。

むしろ人間のそれこそソフトウェアとも考えられる。

 

そう考えれば、会社組織や、チーム、自分の性格....ソフトウェアはあらゆるところを支配する。

 

どれだけ立派なハードウェアがあってもソフトウェアがアップデートされなければ使えないことも多い。

 

日本の会社で得意なのは物作りだ。物作りにいたっては「仏つくって魂入れず」なんて言葉もあるくらい作る人の「精神(ソフトウェア)」を重視するのに、そのつくったものを使う人のことまでは目がいかない。ハードウェア屋さんが失敗するよくあるパターンだ。

 

iPhoneが成功したのはそれを使う方法や価値観(ソフトウェア)の提供に力を入れたからだ。

 

世の中は、物(ハードウェア)とコト(ソフトウェア)の時代を行ったり来たりする。

UI/ UXというわけかたはいわば、UI(物)とUX(コト)なのだとも考えられる。

 

何かを作る人はそれを使う人のソフトウェアも同時に提供しなければならない。

それが作る人の責任でもあり、本質的なサービスのあり方だからだ。

 

ゲームも、ゲームと取り扱い説明書があって、それ自身がサービスになる。

 

リテラシーとつくったものを同時に提供することが大切なのだ

2016 to 2017

あけましておめでとうございます。今年の抱負/去年の振り返りをしたいと思います。

 

□ 振り返り

キーアイテム: 親知らず

去年は親知らずを生まれて初めて抜きました。

でも抜いたのは歯の生え方ではなく虫歯だったからです。

これがこの一年を象徴するアイテムでした。

そこに居て気がつくと穴が空いていて、取らざるを得なくなった。

自分に足りないもの、できないこと、不満、ネガティブなものを触れることで初めて見つけられてそこから自分の次の一手を考えたということです。

 

[ 転職/作るものの変遷/経済・金融への興味/マーケティングへの興味/経営への興味/関数型プログラミング ]

整理しつつ自らを拡張した一年だったと思います。それを踏まえて深度を深めて行くのがことの一年にしたい。

 

去年のテーマはSexyでした。これは物事の体感性や言葉にできないものを自らで感じ取っていくという意味です。わからなかったらとりあえずやってみる、手を動かす、感じてみるといったことです。

 

■ 抱負

テーマ: Fuzzy

今年のテーマはFuzzyです。自分の今までのポジションから少し曖昧(fuzzy)になって、人を動かしたり影響を与えるという場所へ移動すること。言語化できない潜在的な人の曖昧な欲求を汲み取ること。自分の職業すらも曖昧になって拡張した自分をどんどん掘り進んで行くこと。これがテーマの意図です。

 

企業価値についてしっかりとした理解

■ 組織としてやるべきことに合わせて自らが率先して行動できるようになること

■ より多くの人と関われるようになること

 

□ 他のアーキテクチャをコンテキストも理解した上で把握し使いこなせるようになる

iOS SDKを使いこなせるようになること

□ end to endでのものづくりを行ってみること

□ やるべきこととやりたいことを明確に定義し、時間という変数でコントロールできるようにする。

■ サイトつくる

■ ゲームセンターつくる

■ 日本語の文章をうまくなる

 

昨年はより多くの人にお世話になり社会人2年目が終わりました。(年度的にはまだです)時計の針のチクタクのように、与えられた恩は必ず次のタイミングでお返ししなければなりません。よりよい仕事をし、信頼を獲得し、お客さんに価値をしっかりと提供できる組織づくりにコミットできればとおもいます。

 

今年も宜しくお願い致します。

 

 

エンジニアのあるべき論に対して思うこと

エンジニアってこれがいいよね、みたいな同調圧力が強くてダルくなることがある。

ライブラリを作って公開して、いっぱい星がついてそういうエンジニアが最高だ。

みたいな風潮のことです。

 

既視感を感じたけど、よくよく大学の理学部と工学部の関係に近いかもしれないと思い始めた。

 

お互いそういうエンジニアが求めているものが違うんじゃないかなと思うことにした。

・物事に対して本質的な理解・解析・理論構築を行い、その先へ向かうのを大切にするエンジニア。(理学タイプ

・物事に対して実用性を理解して理論はあまり見ずに応用的な機能・意味を重視するエンジニア。(工学タイプ

 

研究畑から出てきた人は前者になりやすく、それ以外から出てきた人は後者になりやすい傾向にある。

 

悩ましいのは、どちらもビジネスに携わっているところです。

飛び道具的に後者のタイプが重視された結果、リテラルだけもつエンジニアが蔓延し奥底の理解が及ばないままになり、前者と後者の割合が偏りそうな危険を感じている。

 

お互いが相補的に価値を提供しあうのが一番の解決策だが、工学タイプの価値重視になると理学タイプの人間が委縮してしまうんじゃないか。

 

すこし行動経済学ノーベル賞とった「ファスト&スロー」のカーネマンの話に近い。

人間は価値判断を近視的にしがちになるが、それは非合理なことが多い。だから本質をじっくり考えて行動すべきだ

 というの「ファスト&スロー」の大まかなフレームです。

 

 だから世の中のメインストリームと全く同じフレームで評価されるために向かう必要はあまりない。自分が戦うべき場所を自分で分析して見極めて戦ったほうがいい。

ブルーオーシャンは相対的にあるものであって、絶対的に存在するわけではない。

 

余談だが、人間はここ数百年でとてつもなく馬鹿になっているらしい。

文明・文化・集団、あらゆるバイアス・同調圧力で自らの価値判断の基準を損ねていないか、考えて行動すべきかもしれません。

社会的パラダイム即時性実用性に向けば向くほど、人間の向くべき方向はどんどん馬鹿に向かっていくことになるので、世の中の向いている方向はそもそも正しいのかを考える癖をつけようと思った。

 

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 

ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 

転職して二ヶ月がたった。

「大学を出てから2年経たないうちに転職した。」 こういうとめっちゃ何も考えずに転職した感。

 けど、転職しました。 それから二ヶ月が経って転職までの経緯を整理したくなったのでメモ。

転職した理由は2点。 「経営者に対する不信」と、「自分のできることを広げたくなった」ということです。  

経営者に対する不信 

やめた会社はスタートアップと呼ばれる会社でした。 そういった会社の多くは、お金をファンドから借りて、多くはない給料を社員に支払って 「みんなで大きなことを成しとげよう」と、夢で会社の人に信頼してもらって経営を進めていきます。 事業がうまくいっていればこそ、その夢が目標として見えることもあるでしょう。

言い換えてしまうと、虚構の燃料を燃やしながら、社員から経営者に対する信頼を柱に経営者は事業を進めていきます。

自分の場合は、入社前にストックオプションを渡すよという口約束もあったものの、 その後2年半の中で渡されることもなかったという点ではやめやすかったのかもしれません。

ブレてしまった

自分が新卒社員になった時、会社で働くには「信頼残高が大切だよ」と社長から教わりました。

でもこれには影があります。というのも、「社員に対する社長の信頼残高」もあれば、「社長に対する社員の信頼残高」もあるわけです。 社長が社員に任せられるようになるのは前者の残高、社員が社長を信じてついていくのは後者の残高です。

どちらも残高が減らないようにする必要があります。 そのためにはブレないことが大切です。

言い換えれば、会社からみた「正しさ」をちゃんと突き通すことが重要ではないでしょうか。

社内のルールに対して違反している社員がいた時に、社長が「まああの人は許容している」というような判断の仕方をし始めた時、 自分の中での社長に対する信頼残高は大きく溶け始めました。

やりたいことを考える

今年は、当初の予定とは大きく舵を切ってチームも変わりました。 事業のために開発を優先しすぎて、市場を意識しない方向へ向いていないか不安になりました。 その時に自分にマーケットを理解して、ビジネスを理解できるリテラシーとスキルがほしいと感じた時、 今の会社では少し学ぶのは難しいかなと感じ始めたのでした。

人が増えた

事業に向けて人を採用しはじめてから、人手不足からか社風とはすこし異なった人の採用も目立ち始めました。 マインドも異なり、社内のルールも乱す人が少し現れてきたため雰囲気も少し良くなくなってきました。

打破したい

会社をそこから持ち上げくらいの力が自分にあれば状況を打破したいと考えました。 しかし今、自分の見てる環境と打破するのに必要な力はここでは得ることはできないと考え、転職にいたりました。

一つの方向を向いて一丸となって働くのはエネルギーも必要ですが、ものすごく楽しいです。 常に笑っている人がいないのと同じように、会社も様々なフェーズがあります。

ネガティブなことも書きましたが、結局はどこまで信じるか。それに尽きるんじゃないでしょうか。

読書論のススメ

読書。それは本を読むことですが、その読書について考える機会は意外とありません。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

読書論で、 有名なのがショウペンハウエルの「読書について」。読書というのは本を読むことで他人の思考を追うことであり、ひいては自らの思考停止につながると断言している読書に対して警鐘を鳴らしているような本です。

確かにそこに「読むだけ」の行動ならその危険性はあるかもしれません。本をどう読むかによってそこから取り出される事実は全く異なりうるのです。本から私たちは何を得ているのでしょうか。

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 テクスト論として非常に鋭い指摘をしている本があります。

それが、この「読んでいない本について堂々と語る方法」です。

本を読むことは著者に従属することだ、とか創造力を失う、

という指摘もありますが、なかでも注目したいのは人と人との間に本があるというもの。

 

本が織りなすコンテンツは読んだ人と本の間にできる「読んだ人の中の内なる図書館」とその本について語れる人同士の「内なる図書館」の重ね合わせで得られる「仮想的な図書館」だと言います。

 

私たちは本を読んでいるのではなく、本と読んでいる人の間の「本」を読んでいるにすぎません。100%読んだという定義はどこにもなく、誰しもが「読んでない」とも言えるし「読んだ」とも言える。本と自分との関係を見出して感じればそれは読書としての効用はすでに得られている。そんなことが書かれています。

 

例えば、サラリーマンが読んでも居ないのに電車のつり革に書かれた「中年の品格」という本の広告に対してブツブツ言っているとしましょう。それでもうその本とそのサラリーマンとの関係はできあがっているし、本がコンテンツを生み出しているとも解釈できますね。

 

世の中には情報が指数関数的にあふれています。自分の中で降り注ぐ情報の雨から身を守る傘が必要です。テクスト論や読書論は情報中毒に陥りがちな現代人にその危険性と、意味を明確に訴えかけてきてハッとさせられることも多いかと思います。

 

アダムスミスが見たかったもの

 1700年代後半。イギリスはフランスとの戦争のあと、財政的にも借金(国債)が嵩み非常につらい状況でした。当時の経済を支配していたのは重商主義。貿易で儲けさえすればいいというような中、貧しい国民には、植民地であるアメリカの防衛コスト、税金のために財産を差し出せというようなことまであったといいます。

 

そんな中で、人はまず自分・身の回りから豊かになっていかなければならない。国はまず自国の中から豊かになっていかなければならないと当時の経済政策に警鐘をならしたのがアダムスミスでした。

 

アダムスミスには二つの著書があります。「道徳感情論」と「国富論」です。

 

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)

 

人には「同感」という仕組みがあり、人が嫌がることはやらない、間違ってると思うことはしないというルールの塊である「道徳」があります。国というのは人々がそれをやってはいけないという判断のもとになっている「正義」からなりたっていると考えました。強い人には強い人の正義、弱い人には弱い人にも正義がある。富んだ人の正義によって自然と富が再分配される。地主の見栄によって新しい人が雇われ、富が再分配されていく。それを「見えざる手」と表現しました。

 

国富論 (1) (中公文庫)

国富論 (1) (中公文庫)

 

当時の重商主義を批判し、まずは国の中から富んでいくために農業、工業、貿易という順番で優先していかなければいけないということを発しました。その中で分業し、国民に富ませ、分配を促し、より強い国家への道を示しました。加えて、当時アメリカにはトマスペインが「コモンセンス」の中で独立すべきだということを示しており、スミスはイギリスにかかる植民地の防衛コストを下げ、ちゃんと自由貿易を行うためにも独立を進めるべきだと言って独立を進めたといわれています。

みんなが貧困から逃れ、お金を使うようになれば市場は正しく是正される。ここにもアダムスミスの「みえざる手」(市場価格調整メカニズム)の考え方が表れているようにも見えますね。

 

個々人ができることは限られているけども、みんなが身の回りに気を付けて正義と、富を分配していけば、人々、ひいては国が幸せになることをアダムスミスは言いたかったのかもしれません。

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

 

 

反知性主義(2)

反知性主義 - 「あなたが何を言おうと私が正しい。異論は認めません」といった考え方。

 

世の中はどんどん反知性化していく。正しさの定規が柔らかさを失って、決して折れない頑固な定規になりつつある。日本は反知性の先進国だ。

 

リーダー組織で一番やってはいけないことは「俺が正しいからとりあえずついてこい」という支配型組織であった。ピラミッド型社会・組織ではそういうことがありがちだが、果たしてそれは思考しているのだろうか。

 

反知性の対極にあるものは「ハック(Hack)」という考え方だったりするんじゃないかなと思ったりする。

ハックという言葉になじみのない人には「悪いこと」といったバイアスがかかっているかもしれない。しかしそうではなくて、ハックの本質は「思いもしない方法で問題を解決すること」にある。この「思いもしない方法」というのが「反知性」の対極にあるのではないか。

 

教科書主義・マニュアル主義・多数決主義・家族国家の強い日本ではなかなかハックは生まれない。

 

少し前から「デザイン思考」という考え方が普及している。これは「問題の本質を見極めて、何度も試行した末に、解決方法を見出す」ようなものだ。デザインコンサルファームIDEOが広めたもので、人々の潜在的な問題を、従来のアンケートや意見ではなくその行動から見出すという方法で、これも一種の「問題に対する解決の問題」の「ハック」だった。

 

シンゴジラよろしく、「新しい方法はありません」「誰もやったことがないのでわかりません」と等身大を言い訳に使う民族性の強い日本人にとって、「そもそも何が問題で、何が必要か」を閃くのは難しい。

 

その中で生き抜くべき生存戦略は、組織の全員に権利を与え、ゲームに参加させる、ということなんじゃないかな。みんなに考えるチャンスを与え、決める権利を与える。少しずつの滲みだした思考が大きな粋になって力を持つ機会を得るためには、アメーバ的にチームを動かすしかないと思う。

 

何が正しくて何が正しくないか、そしてそれはどこからそう思ったのか。人に話しかけてその人が走り出してしまうような答えを得るには、「ハック」しつづけなければならないとおもう。

 

 

デザイン思考が世界を変える (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

デザイン思考が世界を変える (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

IDEOの会社について、そしてデザイン思考が生まれ、どう解決していくのかがわかる。 

 

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

 

デザインとは問題解決のツールである。ドアノブは果たしてドアを引かせる最良の解決方法なのか。問題解決の視点でデザインを考える名著