僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?

僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? 

僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? (星海社新書)

僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? (星海社新書)

 

 

ただただ、長く働けばいい、頑張ればいい。そんな働き方ではいつかは体を消耗してしまう。資本主義の真っ只中で僕たちはどんな働き方をすればいいだろうか。

 

給料ってなんだ

給料は、労働の再生産コストだ。だから、あなたが今月働いたのにかかった食費、光熱費、生活費、もろもろといった、その次の一ヶ月も同じ労働をするために必要な経費なのだ。だから、(結果ではなくて気持ち的に)頑張ったから多い、少ないという理屈は通らない。

お医者さんや弁護士が高いのは、その職業につくまでの必要コスト(医学部にいく、とか司法試験を受けるとか)がものすごくかかっているためだ。あくまでその職業の労働生産を再現するのに必要なコストを支払っているのである。

 

利益ってなんだ

会社にとっての利益とは、売上 - 費用である。売上から人件費、会社の家賃、といった必要経費を差し引いたものが利益となる。利益をあげるには

経費をさげる

売上をあげる

のいずれかしかない。

だから経営者は同じ経費でも余剰労働時間(決まった時間以上の労働時間)を多く取ることが利益につながると考えるのだ。

 

この同じ視点をミクロの視点で労働者に当ててみる

労働者にとっての利益とは、満足感 - 経費である。つまり、労働によって得られる満足感からそれを実現するのに必要だった経費(精神的な苦労や肉体的な苦痛など)を引いたものになる。会社と同様に考えれば、満足感をあげるか、経費をさげるかしかない。ところが人間の満足感とは、儚いもので、すぐにそれになれてしまい時間とともに満足する傾向にある。したがって経費をさげることが重要である。

 

労働者自身にとっての経費をさげるとは

労働者にとっての経費が多いとはどういうことだろう。これはこの記事の最初に書いた、だらだらと同じ能力で背伸びし続け、自分にかかる負担を大きくし続けるということである。とにかく遅くまで働く、とにかく頑張る。それでは一時は良いが、永続的に労働を続けることは難しい。

その経費をさげるためにはどうすればよいか。仕事に対して必要な精神的・肉体的労力をさげるしかないのだ。これは例えばエンジニアならば自分の技術をあげてあるプログラムを実装するための考える時間や作業時間を減らすなどといったことだ。つまりその仕事の実現に必要なリソースをなるべく少なくするような土台作りが必要である。

 

だからだらだら時間を消耗せず、自分の土台をあげるための努力が常に必要である。

 

さらに経費をさげるには 

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

 

仕事の結果を出し、知識も技術もつけ、だらだら頑張り続けるスタイルをやめ、その上で経費をさげるには仕事に対して本質を見抜く訓練が必要である。そして、自分の能力も見極め、それを最大化できるような仕事の実現の方法を考えることが重要だ。

仕事に対しては削除・凝縮・修正・抑制の4つのプロセスが重要で、その中で自分の能力に対してイエスと言えること、ノーと言えるものを振り分ける必要があると思う。

 

資本主義の不都合な真実に対して、労働者は自分の’資本’で生き抜かなければならない。

 

という、2つの本を読んで思ったことでした、まる。

AIは資本主義を終わらせるか

結論

終わらないはずだ。

 

理由

 

資本主義の下、技術革新は常に起こり続けている。

それにともなって、労働者一人が生産できる価値は日に日に増大し続けている。

たとえば労働者に求める一日の生産価値が80だったとして、

最初8時間労働が必要だったとき、

技術革新で生まれた機械の単位時間あたりの生産量が40になるならば、

労働者の必要時間は2時間になる。 

 

次に経営者はこう考える。

必要労働時間が8時間から2時間になったなら余った6時間は余剰労働時間に使える

 

これが資本主義の不都合な真実だ。

資本主義は、労働者を価値生産のために時間を用いていて、その価値生産を満たせば

給与は払われる。それはその価値生産に必要な労働の再生産コストとして。

 

資本主義には、効率化、技術革新を推し進め、 労働者を解放する可能性を内包しているのにもかかわらず、システムがさらにその状況を悪化しているように見える。

 

AIの開発が進み、人の仕事がなくなっていったと同時に、資本主義下では、他の労働における余剰労働力としての労働者が増加するだけであって、実際に人が働かなくてよくなるというようなユートピアが生まれることはないと思う。

 

 

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

 

 

ビギナーズ 『資本論』 (ちくま学芸文庫)

ビギナーズ 『資本論』 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

情報の整理、圧縮

川上量生著「コンテンツの秘密」に、

コンテンツとは、世の中の道具(みんなが知っているもの)ー本の中では客観的情報と書かれているのだがーを用いて、自分にしか見えなかった情報ー対比的に主観的情報と呼ばれるーを表現したもの、と定義されている。

 

ビジネス本・小説・新書・文庫、様々な本を読んで最も重要となるものは次の二点である。

・自分にとって乗っている情報がいかに映ったか

・乗っている情報の本質はなんだったか

 

すなわち、本の消化とは、この情報を取得することなのではないかと思う。(百科本や教科書といったものは例外である)

 

本の内容は1日にして腑に落ちることはあまりなく、ワインのように一度寝かしておくことも重要である。その間にふつふつと内容を反芻するうちにニューロンが他のニューロンとつながって回路が生成される。その後読み直した時に回路全体の地図が手に入る。

 

地図をみて、気になる場所があればそこへ飛ぶ。もう一度その風景をみて感じたことをメモしておく。

 

だから、最後にはそのメモと地図さえあればいい。

本棚から本があふれそうになったら、本当にその本がずっと残すべき情報価値のもったものかどうかを確かめるといい。

 

視力のとどく範囲で。

一般的にいって、人は心配性だ。

将来のこともわからないのに将来のことを決めたり考えたりしたがる。

 

無人島に行く、となるといっぱいものを持っていこうとする人がいる一方で、何も持っていかない人もいる。この差はなんだろう。

 

将来を前から予測出来る人はむしろ、自分に自信があって、そこまで心配性ではないんじゃないかなと思ったりします。こうなったら自分はこうなるだろうと自分のことがわかっていると思いこんでいたり、未来の自分への期待をもつことができているためです。

 

人の体の細胞は日々入れ替わりーもちろん脳みそもー変わっていくのに考え方や行動が変わらないと思うほうが不思議だとも思います。

 

今に集中して、未来の自分やほかの人に対して期待を持たない、それがむしろよい働きをすることもあります。

 

つまり「期待しない、諦める」こころをもつこと、これは変わり続ける自分の細胞と意識に対してうまく付き合うための姿勢の一つだと思います。

 

変わり続ける物事に対して将来を作らない、決めない。

今とだけ戦い続けるーこれが一番柔らかく、かつ楽しく生きられる戦い方だと思います。

 

自分の視力のとどく範囲でがんばり続ける。それが一番柔らかい生き方だと思います。

カッコつけてますか?

カッコつけよう。仕事も見た目も趣味もなにもかも。

 

例えば、女性のカッコつける習慣は素晴らしいと思う。

少しの外出だとしても、女性は化粧をする。

 

プログラムもまた、同じようにカッコがないとダメであったりする。

最後の最後で、カッコを忘れてしまっては動かないのだ。

 

人の仕事も同じくしてカッコつけるべきである。

もちろん女性のそれとは違って、

見知らぬ人にその仕事が見られることはあまり多くないだろう。

けれども、カッコつけて仕事することはカッコいいのである。

 

カッコつける、というのは次のようなことである。

人から見られることを意識して見やすく、理解しやすく、評価されやすいように、こだわりをもって、物事を行うということ。

 

すべてにカッコつけられれば、それが一番良い。

物事にこだわりつづけ、自分の意思とともに見えかたを意識して行動する。

 

カッコつけよう。何事も。

オブジェクト指向のこころについてちょーざっくりしたスライド作りました。

オブジェクト指向ってなんだったんだろう。

 

オブジェクト指向ってなんだっけ?と言うと

「えとまずクラスとインスタンスがあってですね...」みたいなことを説明する人も多いかと思います。

 

オブジェクト指向は概念であって考え方です。だからなるべくコードを使いたくなかったので使ってません。説明するべき軸はオブジェクト指向って現実世界のあるべき姿に近いよね、てことでした。

  • みんなが責任を持っていてやるべきことを知っている
  • 仕事を言ったら良しなにしてくれる
  • すごいできる奥さんとか友達とかそういう人

 

けどそれって結局「意図」のやりとりになるんだよね。

意図が伝わるための工夫がオブジェクト指向には散りばめられていて、

 

プログラムを

「処理を受け渡し続ける次元」

から

「意図でやりとりできる次元」

にあげてくれたのがオブジェクト指向のやったことなんだと思います。

 

デザインパターンしかり、オブジェクト指向型言語しかり、

そもそもそういうコンテキスト(オブジェクト指向とは何か)があって

それの実現の方法のための技術であることをベースにおいて勉強すれば

それの「価値」がわかって全然苦しくないと思います。

 

昔っから「それなんのためにあるの」がわからないと頭に入らないタチの

人は考え方を基本に追いかけていくといいと思います。 

 

おすすめの本

デザインパターンとともに学ぶオブジェクト指向のこころ (Software patterns series)

デザインパターンとともに学ぶオブジェクト指向のこころ (Software patterns series)

 

 

 

EdTechと違和感

EdTech(エドテック) ーとは、 教育 と ITを掛け合わせたものである。

 

そもそもEducation(教育)とは何か。Educate(引き出す)を語源とする単語である。

この引き出す、をせずに従来の教育の仕方をただIT化したのがEdTechとなっている。

これがEdTechと言われても新しさや、期待を持てない違和感を生み出していた。

 

 紙をタブレットにして、人の単純作業をパソコンに置き換えるだけ。日本の教育の問題はそこにはないと思う。教育者の仕事が教育ー教育を受ける人に対しての引き出すという意味であるがーを行えていないことにあると思う。

 

みんな、の標準値を決めてそれに足るか足らないかでしか教育を行っていないのだ。

教育を受ける人に対してのその人のコンテクストーその人の経験、育った環境、知っている知識などーを理解してその道具を使って組み立ててあげられるのが教育だと思う。

 

身近な人に勉強を教えてもらうと勉強がはかどる、という経験をしたことがあるかもしれない。それは、お互いのコンテクストー持っている道具ーが近いからお互いの理解が進みやすいのだ。友達同士で教えあったほうがいいことも多い。これはそのためである。

 

ITは教育をする側が「学」を「楽」にするためではなく、教育を受ける人が「学」を「楽」にするためにあるべきだと思う。

 

自分が学習する際も同様で、自分が自分のやりたいことを「引き出して」行かなければ自分の足は進まない。みんなやっているし自分はやっていないから、では失敗している教育のあり方そのままである。その失敗を鑑みれば、自分は自分の気持ちに正直であるべきなのだ。

 

テクノロジーは方法を変えるだけではなく、文化も変えるべきである。それが、今の日本のEdTechには足りない気がする。