菩薩のいたみち。

「悟り」ということばを聞くと人はどんなイメージを抱きますか。

仏教の三つの情炎ー嫉妬と怒り、妄想。それらを無にできたら仏になれそう。

そんなイメージではないでしょうか。

 

ですが、ブッダは、実はそもそも「ただの人」であることが、多くの人の心の支えになっている、その理由だったりします。

 

ところで、「諦める」ということばは仏教にかなり関わりがある言葉です。

「漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する」(参考)

とのことです。

自分が今まで感じていたものに対して、一歩引いて自分の意見と他の意見に対して両方を理解しようとして「ああ、それはそういうものなんだ、なるほど、そういうものか。」ーこの気持ちが「諦め」に近いとも言えます。

 

つまり、むしろブッダは、「何が正しいか」や「どうあるべき」ということはあまりはっきり説いて押し付けたりはしないで、大きな心で「まあそんなこともあるよね」そう受け入れるからこそ、様々な人を救ったと言えます。

 

草薙龍瞬によれば人が悩まないためには、心の半分を自分の心の動きに視点を据えて、もう半分を相手の人のために据えることがコツだといいます。

 

(自分の)心の出来事や、相手の言葉、心の動きを最初の方の三つの情炎ーにカテゴライズして、なんだ、これって妄想(思い込み)じゃないか、とかこの怒りはただの嫉妬じゃないか、と冷静に考えていくことで、悩み事と向かって心や体が反応して、体力を消耗することはさけられます。

 

ああだのこうだのいろんな意見もあるし、いろんな人もいるけど、みんなの考え方は多種多様であるし、世の中そういうもんだよね。ーそう捉えられた時に「諦」の感覚を得られると言います。

 

常に等身大で自分を、人を見つめ続けることが無駄なことに体力を使わないですむ生き方だと思います。

 

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」には、ブッダの合理的な考え方、物事の捉え方の基本がわかりやすく説明されています。気を楽にして肩の力を抜いて生き抜くための世渡り術のヒントが多く含まれており、だからこそ仏教というものが、未だに世の中の人の役に立っているのかもしれません。

 

今になって振り返れば、仏教には人生のヒントが散りばめれていることがすこしだけわかるような気がします。他の宗教に比べればカジュアルでもありますし、普通の人が「諦め」の末にブッダになったという側面もあるため、「一切衆生悉有仏性」(誰しもが仏になる性質を秘めている)という言葉もあります。

 

すこし息苦しさを感じたら、ブッダの言葉に耳を傾けてみるのもいいかもしれません。

 

 

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

 

諦めること。そして、諦めないこと。

きっと、あの人はこう思ってる。人は他人のことを自分の立場に置き換えて考えてしまいがちだ。

 

けれども、そこにはエゴがある。人の考えなんてお見通しだ。というエゴだ。

 

そのエゴー言ってみれば一種の呪いのようなものーから解き放たれるためには、

いろんなことをシミュレーションし、打ちのめされたり、人との違いを知る経験が必要だ。

 

どこかの俳優がこんなことを言っていた。ー「自分が出ている映画の役に満足がいかず、どう考えても主役の方が向いてる、と監督に噛み付いたことがあったが、今なら監督の役配分が正しかったと理解出来る」。自分のエゴに囚われたり、自分の気持ちに依存したり、自分に対する防衛本能が自分を盲目にしてしまう。少し離れた視点で客観的に見れば自分が愚かだったと気づくこともあるし、逆に自分がその場所にいなければならない理由や意味もわかるかもしれない。

 

何かにたいして怒ったり、不満におもったら自分に問う癖をつけよう。

それは本当に存在するのか。自分が感じているだけなのではないか。

真実(実際に起こった客観的なこと)はひとつだけども、感じたことはみな違う。

例えば株式相場では市場にはマイナスの要素もなくプラスの要素もなく、安い値段で買った人に取って高く「見える」のであって、そこには符号を持たない情報が含まれている。メディアもまた、情報はひとつであって、そこに見る人の「色」が乗る。ジャーナリストから伝わる、ジャーナリズムはあっても、情報自体にジャーナリズムはないのだ。

 

「色」は常に危険だ。前に見た情報を優位付けたり、自分の行動を正当化しようとする気持ちが働いたりする。気持ちが合理的なのか、言い訳をしようとしてるのではないか、常に色に気をつければ、くだらないことで何かを失ったり、もったいない結末を迎えずに済みそうだ。

 

 人の行動バイアスについて知りたくなったらファスト&スローがオススメだ。

行動経済学ノーベル経済学賞をとったカーネマンの著書であり、いかに人の心理が

合理的に見えてもどこまでも偏見はついてくるのか、くどく説明してある。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 

ファスト&スロー (下)

ファスト&スロー (下)

 

 

 人との関わり方をじっくり考えたくなったら、カーネギーの本を読むと良い。

肩こりをほぐしてくれるようなおじいさんのお話で、目の前のストレスをどう捉えたら霧散できるかを明快に説明してくれる。人に期待しすぎないこと、けれども諦めないこと。優しい心の持ち方を、様々なエピソードを通して教えてくれるのだ。自分の悩みに向き合いたい方は「道は開ける」を、人との関係を考えたい方は「人を動かす」がいい。

 

道は開ける 文庫版

道は開ける 文庫版

 

 

 

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

 

 

諦めたくないけど、諦める。諦めるけど、諦めない。自分に対しての諦めと、人に対して諦めない気持ちが何事も大事だとおもう。

なぜギークは良い作り手になりうるのか

いい聞き手はいい話し手になりうる。

いい読み手はいい書き手になりうる。

 

こういう言葉を聞いたことがあるかもしれません。

 

年下なのにしっかりしてる、あるいは若いのにも関わらず目上の人にも話を聞くし、年下の人にたいしても見下したりしない。こういうことができる人が世の中には少ないもののいます。こういう人の特徴はなんでしょうか。

 

どちらも自分の中にあらゆるレベルでの自分を持っていて、それを巧みに使い分けられられることが特徴かもしれません。

 

自分と階層・文化・年齢・仕事、あらゆる方向で差がある人に対して「共感できる」ことこそ、その人から話を理解するために必要だったりします。逆説的に言えば、伝えたい人の人格を理解してなりきれれば、伝えたい人に伝えられるのかもしれません。

 

そういう特徴を身につけるためにはどういうことが必要なんでしょうか。

知識と知恵。一文字違いですが、一方は文字の羅列として情報化されたもの、一方は自分にとっての意味を持った「有機的な情報」です。知識を知恵に転化するためには、自分の仕事に対しても人に頼んだ仕事、行った仕事に対して、「シミュレーションと反省」の習慣を身につけることが大切だと「仕事の技法 (講談社現代新書)」で田坂広志は言います。これからやる仕事は何が問題なのか、何が起こりうるか、そういうことが気にしながら実行し、実行終えた仕事は、何が問題だったか、何が重要だったか、勘所とも言える「てこ」の部分を理解しておくことが重要です。そこには

仕事の技法 (講談社現代新書)

仕事の技法 (講談社現代新書)

 

 

何かを伝えることに関してもまた、自分の中にあらゆる自分をもち、伝えられる立場の人に対して共感できることが重要です。厳密には「伝えよう」として「なりきる」わけではなく、伝えたい人が伝えたい意思が、その意思が届けたい人に「届いてしまう」ようなものだと言います。(街場の文体論 (文春文庫))

街場の文体論 (文春文庫)

街場の文体論 (文春文庫)

 

 

ものづくりもまた、優れたコンテンツの理解者が(ここでは「優れた」とは様々なものに触れてきた肉体的な「知恵」を持っているというのが定義です)面白いコンテンツを生み出すということがよくあります。これもまた共感力を用いて過去の知恵を組み合わせて作り出しています。ここには、「知識」から組み立てられるボトムアップな面白さではなく、ユーザーとしてみたときの「あの感じ」という肉体的な面白さからつくられるトップダウン式の面白さがあるように思います。 

 

様々な人と向き合い、理解していくためには自分の幅を持ち、それを使って共感していく力を身につけていくことこそ、生き抜くためには重要なのかもしれません。

新しいことをすることは、ルールを知ること

人に、何を目的として本を読むの?、とか、経済を勉強するの?とか、3Dを勉強するの?とか、聞かれることがよくある。けど明確な目的はないことがおおい。

 

でも、一つ言えるのは世の中にはルールを知っておけば参加できる「ゲーム」がたくさんあるということだ。

経済が読めれば新聞が読めるし、日経平均や為替、あらゆるゲームに参加したり理解できるようになる。

哲学や思想を学べばその考え方を使って少し先の未来を考えたり、目の前の考え事と戦うようにもなれる。

音楽をやればジャンルがわかるし、構成や技術、あらゆる角度から作品が見えるようにもなる。

プログラムをやればものの作られてる仕組みが見えるようになる。

 

何か新しいことをやるということは、そのゲームに参加するためのルールを知るということ。ルールがわかれば遊べるし、ルールを逆手に取ることもできる。

 

目には見えないルールをどんどん習得してその上で遊べばいい。

エンジニアリングも、ものづくりも経済もルール(仕組み)がある。

世の中のあらゆるゲームに参加するために必要なことを学んでいけばいろんなことが見えてくる。

 

難しい・わからない・妥協・諦め。ルールを学ぶことを諦めてしまうのは簡単だが、諦めればそこで終わり。チャンスもゲームもその人にはやってこない。 

 

経済学を学ぶ (ちくま新書)

経済学を学ぶ (ちくま新書)

 

 

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

 

 

 

 

 

徒然草に学ぶ

時は201X年。エンジニアという仕事が存在する時代。

IT業界の時代はオープンソース。人類の発展に自らの技術力を捧げることで

徳がつめると考えられていた頃である。

 

僕もコミッタとかソースをあげられる人になりたい、そんな思いはあるものの

Githubの草は真っ白だった。そんなとき一冊の本が空から落ちてきた。

 

徒然草」(兼好法師)

新版 徒然草 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

学生の頃によく読んだ本である。風に吹かれて開かれたページにはこんなことがかいてあった。

 

「第150段 技術や芸を身につけようとする人で、「うまくないうちは誰にも言わないでおこう。うまくなったらみんなに言おう」と思ってる人が成長して習得した試しはない。できないうちから人に見られ、disられながら、恥をかきながらもどんどん練習するような人が師となるような人に最終的になるもんだ。」

 

ほう。青年はそのページを引きちぎって家に帰って壁に貼り付け、すべての作業をオープンにするようにした。のちのスターエンジニアである。

 

=========茶番終わり

 

とまあ、そういうこともあるわけで、昔の徒然草ですらこういうことを書いています。人知れずやってからうまくなったら人に言おうなんていうのは大概失敗するものですよね。自分も学生の時にギターとかなんやかんや手を出して成果は雲散霧消してしまいました。

 

エンジニアの仕事も当時は全然できもしないのに爽やかな顔で「できます」なんて言いながら小さいベンチャーのお手伝いを始めたのがきっかけだったりします。

 

技術がどんどんブラックボックスになって使う人が箱の中身を知らなくなっていく時代ですが、興味を持って中身をほじくってみたり、見よう見まねでもいいからやってみたりそういうことを許容できるような雰囲気って大事なんだなあと思いました。

 

SNSでみんなが監視をして、自分も自分の監視をする時代です。アダムスミスは人の行動を自分の視点ではなくて公共の監視の視点から評価するべきなんてことを言ってましたが(道徳感情論)、人からの目を気にして何もできないこともあるので、そういうのは取っ払っていけたらいいですよね。

 

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

本棚と生け簀

本棚は生け簀であるべきだ。

生け簀とは、

取った魚などを一定期間飼っておく所。水槽や、池または海岸の水中を竹垣や網で囲ったものなど-(出典:goo)

のことを言う。

水槽の中にこれから食べられることを待ち遠しく魚が泳いでいるあれのことである。

 

情報は生き物だ。そして情報をもつ本もまた生き物だ。

でもその生き物のもってる力を本当に自分が引き出してあげられるかどうか、つまり、

どの情報が書いてあるかよりもその情報が自分にとって「今」意味があるのか

ということが重要だったりする。

 

だからそれを重視していくには自分にとって必要であり、価値を取り出せると確信できことを考えながら本を選んでいかなければならない。

 

でも一方で、それはー魚同様本にも賞味期限があるからーそのほうが経済的にも、空間的にも消費されなくて良かったりする。

 

何事も、新しいことは楽しい。

それでも、本当に新しいことはない。必ず文脈は存在し、その文脈を大事にする。

自分にとって最適な本を選ぶ基準は、その本の7割がすでに理解しているかということだ。

 

すでに理解していることをもう一度読むことは楽しく無いかもしれない。

しかし、同じ情報を受けて脳のネットワークは強化される。そして新しい情報である3割によって脳は新しいシナプスを形成する。インプットとアウトプットが同時に行えるのだ。

 

人生は短く、得たものは大事なことをちゃんと持って明日に向かわないといけない。そのためにも本棚は生け簀であるべきだ。

めんどくさいの正体

めんどくさいの正体。それはめんどくさい。

めんどくさいと思ったらその時点でめんどくさくなる。一種の呪いみたいなもの。

 

実際の作業量とか、そういうものではなく、呪いです。

 

「Aを実現するにはBの方法しかできません」と言ってしまうことがある。

これもまた呪いの一つだと思う。

 

特に日本人は呪いにかかりやすい民族だ。

例えば、日本とアメリカの国際的な立場を見ればわかるように、マッカーサーが日本に対して日本には力を持てないように呪いをかけた、と思い込めば、アメリカに対しては呪いをかけた相手として「恨み」を持って向かう。一方、アメリカはそんなつもりは無いので、呪いを解け、と言ってもなんのこっちゃ?という顔をする。

 

エンジニアでも「これはAの方法しか無いからめんどくさいです」と言ってしまう人も多い。これは、出来ないですとめんどくさいですのダブルの呪いがかかってるわけです。

 

「ハック」と言うと人によっては訝しげな顔をするかもしれないけど、これは「物事をうまく解決する」というのも含意されている。

エンジニアの仕事は「問題をうまく解決すること」であって、方法を決めることではない。「その方法しか無い」という呪いが起きそうならその呪いがまず問題として考えなければならないことであって、自分に呪いをかけつづけて自分を呪い殺そうとするのは「非生産的」だなあと思う。

 

めんどくさいの呪いと同じく、理想的、も「理想」だから、理想的なのだ。

それを自分の思い込みに用いるのも間違っている。

現状に対してどう戦って解消するかがやるべきことなのにもかかわらず、「そもそも」という「理想」を用いるのは最も意味のないことだと思う。

 

自分が「こうあるべきなのに」という理想に対する愚痴が全く効用を生まず、聞いてる人も話してる人も何も生産しないのはそれが「理想に対する愚痴」だからであって、

「現状に対して解消するための苦悩」ではないからです。

 

職場がこうあるべきなのに「こうでない」と愚痴を言うタイプはどこへいっても同じことを繰り返すと思う。「隗より始めよ」ではないけども、まずは自分の眼の前の現実と向き合って闘うところから始めなければ、自分に対する呪いは解けない。

 

 

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)